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少年時代 昭和22年東京都杉並区西荻窪生まれ、西荻窪駅から徒歩7分のところに住んでいました。 昭和29年高井戸第4小学校に入学、その年の2学期途中で板橋区の富士見台小学校に転校。私の最大の特徴は無類の動物好きです。幼い頃、西荻窪にはし尿を馬で汲み来に来ていた時期があり、久晴はすっかり馬に惚れてしまい、自分の干支を馬年にしてしまいました。 小学校時代は、犬、亀、うさぎ、小鳥のじゅうしまつやひばり、金魚、口細、ザニガリ、カエル、蛇、などです。犬は捨てられた子犬を拾ってきて、親の反対を押し切って無理やり飼いました。亀を飼ったときは、朝早くおきて、地面を掘って餌のミミズを毎日探しました。蛇は鳥かごに入れていたら、逃げ出してしまい大騒ぎになってしまいました。夏休みは毎日のように蝉取りに明け暮れてました。 父が政治に関心が強く、良くNHKのニュースをラジオで聞いていたので、自然と政治に関心を持っていた。子ども心に自民党は嫌いであったが、共産党も何となく嫌いであった。 中学時代 昭和35年板橋区立志村第一中学校に入学。我々団塊の世代であるため、一学期は校舎の増築が遅れ、教室が足りず、早番・遅番がある二部授業でした。私たちの学年は1クラス50人で12クラス600人もおりました。 私の住んでいた前野町は道が狭く曲がりくねり、畑をつぶし住宅や中小企業の工場が無計画に建っていくのを見て、なぜもっと計画的にできないのかと疑問に感じました。共産党は嫌いだが、社会主義のことは良く分かりませんでしたが、社会主義の計画経済に何となく憧れる気持が当時生まれた。 高校時代 昭和38年、都立王子工業高校電気課に入学。高校2年の3学期に小平市に転居。 中央線の武蔵小金井駅から赤羽線の板橋駅まで片道1時間電車で通学するようになり、暇つぶしに本を読むようになり、その頃から学校の図書館にも良く通うようになりました。 夏目漱石などいろいろな本を読む機会に恵まれ、政治にも興味を持つようになりました。 小松原研磨製作所時代 昭和41年、紙ヤスリを製造していた小松原研磨製作所に入社。電気設備の製作と保守の仕事を行いました。 新工場が茨城に完成し、製造現場の転勤問題が発端で、労働条件の改善を求め、昭和43年9月、労働組合が結成され、執行に選出される。 12月の一時金闘争の時、不当な解雇を受け、翌年1月浦和地裁で勝訴。現職復帰を求めたが、会社側が拒否したため、4年間職場復帰を求めて、東京高裁まで争ったが、昭和47年会社側と和解。 解雇され職場復帰をめざして会社と戦った時は、戸田地区労働組合協議会や様々な組合の人たちに支援を受けたことが、本当にありがたかった。こうした組合活動のなかで、働く人々のために、一生懸命活動している日本共産党員の姿を見て、私も日本共産党に入党しました。 職場復帰闘争を行っていた頃は、戸田地区労の専従書記もやってました。その時新幹線の戸田通過問題が起きました。当初地下方式であったものが、地盤沈下などを理由に高架方式に代わり、戸田市は通過するだけで、何のメリットもなく、騒音公害だけを撒き散らすとして、戸田地区労を中心に「新幹線反対協議会」結成して反対運動に取り組みました。その後にできた、「新幹線反対同盟会」とも協力して、集会や自動車パレードを行いました。こうした反対運動がきっかけとなり、埼京線が併設されることになりました。 |
戸田民主商工会時代 中小零細業者が厳しい条件のなかで、創意工夫を凝らしたくましく、生きている姿に、いつも関心すると同時に、励まされてきました。 |
大谷敏夫議員の後を引き継ぎ、戸田市議会議員選挙に、立候補し、当選。現在4期目。 |
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