北原 閑酔 


「こがんもんやろか─」
 けしてふるえてはいなかったつもりが、ペン先は右肩から先の萎えを伝えている。
 永いこと仏間に入って亡き妻に対座した。灯明がヂヂと燃え、こけた頬とかん骨のとがりを際立たたせている。静かだった。
「いんま、行くばい。かあちゃん」
 それは十三年前に死んだ妻のハルに言ったのか、同じ年に死んだ実母のセイに言ったのか。
──俺は何も残さなかった。
 藤八は長押の上に架けられた父、母、妻、兄の写真をみた。それから仏壇と床柱とのかしぎをみた。古びた家の傾きが胸を刺した時、藤八は少し笑ったようにみえた。灯明を消して仏間を出、中の間の飯台に便箋を広げた。
──いや、俺は残してしまった。
 四十年前に死んだ父親から引き継いだ家屋は,もうその時すでに充分歴史の検証に耐えうるものであったのだが、納屋と縁側の一部を新しくしただけで、構造本体の腐朽は進んで家のかしぎは老いの身のかしぎと重なる。
 夜が明けやらぬ前にとペンをとったが、もとより承知の家の傾きにこの期におよんでさえ胸捕らわれる自分に、自嘲ともつかぬ笑いが浮かんだ時、藤八は頬の緩みとはうらはらに深い悲しみを思った。そうして、今ここに座っている自分をじっと見つめた。
 黄色い風景が見えてくる。道が一本下から伸びてきている。肥樽を積んだ大八を牛に引かせて来るのは藤八とハルだ。昨日祝言をあげた二人は朝早く街に肥えを汲みに行った。坂道は黄色い埃りをぽくぽくあげて、牛の鼻面をとる藤八と大八の後を押すハルの藁草履だけの素足を汚した。
「少し休むや」
「うんにゃ。うちはよか」
 時どき藤八は後を向き声をかけた。昨夜臥所で初めて抱いた新妻は、肥樽の陰から丸い顔を出して言った。丸い鼻の頭に汗をかいている。どこもかしこも丸いと、藤八はおもった。麦刈りが迫った頃で,道の脇の草が勢いよく伸びていた。
 藤八は、さぁこれからだと牛の尿をかわしながら、丸い丸い妻をみて思った。
 四十四年前のことだった。
 戦争は日増しにひどくなってきている。軍都のはずれの村の斜面に刻み付けられた田畑に這いつくばる不安だらけの生活の中で、藤八は、だからこその希望を持とうと思った。最初の子が生まれて暫くした時、二度目の招集が来た。藤八は出征する前夜「死にゃせんって」と言ってハルを抱いた。花火よりも鮮やかに光りをふりまいて焼夷弾が炸裂した夜、ハルは二人目の子を生んだ。

 藤八はその時ハルの懐かしい息づかいをきいたように思った。
 さっきいた仏間の方を見た。むろんハルの写真は見えず、襖の向こうに夏の早い朝の訪れが漂っていた。藤八はキャップとペン先をじっと見た。

 戦爭が終わり藤八はすぐに帰った。
 父が死に子が次々生まれた。
──その貧しく汗みどろに働いた日が、昨日今日の境いなく浮かんでくる。
 だが、彼には悔恨があった。ハルは子を生んだ後二三度倒れ寝込む事があった。藤八はいたわりも言わず田仕事に、畑仕事に、山仕事にせきたてた。ハルは耐えると言うより、そうせねばたちゆかない生活を知ればこそ、むしろ身体の弱さを呪った。「頭の痛かぁ」と言いながら幼い子達を見て野良の仕事に出た。
「とうちゃん、かあちゃんばも少し寝かしといて、ね、ね」 幼い長女が母親を思って哀願とも抗議とも取れる口振りで言う。だが藤八はどこそこの畑の草を取れとか植え付けをしろとかの指示をして、田畑に出ていった。四番目の子を生んだ後いくらもせぬうちハルは倒れて意識を無くした。持病の高血圧だった。
 ハルはしばらく寝こんだだけで、すぐに起き出して働いた。母のセイは幼い孫の守りはもちろん、朝は夜が明けると同時に牛の餌の草苅に出た。藤八とハルは夜の明けやらぬうちに野菜をリヤカーに積み市場に出ていった。竹藪を焼き石を起こして畑を広げた。そういう畑には荒れ地に合うニラやラッキョウを植えた。
 炭も焼いた。
 藤八は山仕事の合間の一服時、煙草の煙の向こうに小さく霞んでいる我が家を見ていた。野良仕事の百姓が見えて溜池の土手の草群には牛が繋がれている。長閑な風景だ。汗水たらして働く日にだって和む時はある。斜面の草木を払い、石垣を積み、小さな流れを堰き止め水路を掘り、てのひら程の土地ものがさず田畑を墾いてきた祖先達も、やっぱりこうして仕事の合間のほんの少しの一服時に、手塩にかけた田畑が創る風景に心和ませたにちがいない。今日と明日を喰いつないで生きるだけでも過酷であった昔、祖先達は、だからこそ今日より明日の思いを強くして生きて来たのだろう。藤八はそんな感慨に浸って煙を吐いたものだ。
「とうちゃーん、かあちゃーん」
 子供の声が山にこだまする。学校が退けて野良の道をかけ降りてそれから山道を登って子供達が来る。上の子は下の子の手を引いている。乳飲子をおぶったセイも来る。ハルはその子を胸に抱き取り乳を飲ませる。
「とうちゃん、この木、何年したら材木になるとね?」小学生の長男が植えたばかりの杉や檜を見て言う。
「四十年も五十年もせんと材木にはならんとぞ」
「よし、俺がこの木で家ば建つる」
「そんときゃ、もう、とうちゃんは、おらんやろ」
 三十数年も前、春だったか秋だったか、雑木の柴に腰を降ろして乳を含ませていたハルが長男の宣言に微笑んだ事を藤八は覚えている。
 しかし暮らしは一向楽にならなかった。殆ど藤八に責任があるのだがハルは頭痛の合間にも子を生んで、都合六人になった。農業経営の抜本的改善は緊急の課題だった。八反の棚田からあがる米の収穫量はたかが知れていた。藤八はトマト、ナス、キュウリなど夏野菜の温床栽培を手がけた。初生雛からの養鶏も試みた。野菜も卵も貴重な現金収入をもたらしはした。だが、小規模ではどうにもならない。かと言って規模拡大の資金も無ければ、谷底から這い上がる様な段々畑ばかりでは立地条件もそぐわなかった。藤八が希望をつないだのは蜜柑だった。米も野菜も養鶏もやりながら蜜柑もやる。斬新な着眼ではなかったが、土地と気候に合った作物で多角的農業経営を目指した。

 藤八は、大変世話になったと書いたあとをどう続けようかと、ちょっと顔を上げた。家の後ろの元蜜柑畑の夏草が、ガラス戸越しに見える。藤八の左目は殆どかすんで見えなくなっている。それで右目を細める様にして夏草の茂みを見た。
 左目は三十年前、家の後ろの畑を蜜柑畑にする為に土中の石を掘り起こしている時に、石の破片が入って傷めたのだ。今ガラス戸越しに見た元の蜜柑畑がその現場だった。春先の事で結局それから半年余、入院静養などで農作業を休んだ。その間ハルは温床作り、春田耕し、麦刈り、田植え、除草、除虫、稲刈り、籾すりと寝る間もなく働き詰めた。上の子二人は家事にも農作業にも欠かせぬ力になっていたが後はまだ幼い。末の子は生まれて誕生も迎えていなかったし、三、四、五番は順にはしかに罹って「かあちゃん、かあちゃん」と甘えた声を出す。セイはそういう孫の子守りから藤八の付き添い、家事野良の仕事までハルと一緒になって働いた。
 蜜柑は畑二枚を潰して四十本程植えたにとどまった。これでは多角経営の一助をなすとは言えない。借金が残った。入院費用、農繁期に加勢を受けた人達へのお礼その他諸々。 ──しかし、あの頃、俺は諦めなかった。今、死ぬ事を考えている今も、振り返る六十
九年の人生は総じて間違っていなかったと思う。
 藤八はまたじっとペン先をみた。間違っていなかったと思ったそばから、ぬかるみのような慚愧と悔恨が苦くこみあがってくる。この一年程、何時もそうなのだ。そしてその後に来るいいようも無く寒々とした諦念…。

 藤八は諦めも弱音も吐かず歯を食い縛って働いた日々を思った。朝は五時前に起きた。牛の餌の草を刈り田や畑を起こす。季節の野菜の収穫時には夜遅く迄、出荷の段取りをして朝早くリヤカーを引いて市場に行く。ハルは近くの発電所の社宅に行商に行った。僅かの鶏卵も木の実も草花も売り歩いた。それでも現金収入はたかが知れた。子供達四人は給食も月ごとに交代で取らせ、むぎめしに魚粉と漬物の弁当を持たせた。着る物は殆ど行商先の社宅からの貰い物で済まさせた。やがて長女は高校に入った。そんな経済状態ではなかったが、教師の熱心な勧めに根負けしたのだ。一学年下の長男も熱心な進学の勧めを受けた。何人かの教師は代わり番こで夜なべ仕事中の藤八を訪なった。藤八とハルは何度も叩頭しながら、いや最後は「首ば吊れって言うとですか。先生は」と怒鳴ったが、ともかく跡取り息子には、すぐ働いて貰わねば暮らしがたちゆかぬ事を繰り返し言って勧めを断った。とうの長男は親の夜なべを土間の隅で手伝いながら、じっと俯いていた。幼い下の子達は納戸の障子の破れ穴からそんな親や兄をキョトンと見ていた。
 子が不憫だとか、貧しさの不運だとか、そんな悲嘆にくれてる暇は無かった。実際、藤八は子供が不憫だとは思わなかった。貧しい百姓の子に生まれたのは、本人の意志でそうなったのでなく、さだめだ。それをうじうじ言って何になろうか。時代や世の中のせいにして何になる。そこんとこの性根も持たぬくせに泣き事を言ったり、理屈を捏ねたり、太平楽を吹いたりする者は少なくも土を耕し生き物を育てる資格は無いのだ。
──俺だって上の学校に行きたかった。次男で跡取りでもなかったのに百姓の跡を継い
だのは、兄貴がたまたま村の学校で一番できたからだ。親は勝手に兄貴には勉学、俺に跡取りの道を作ったのだ。だが俺は一生懸命働いて兄貴の勉学を支えたぞ。
 今思えば立派すぎる程の泣き事であり、言い訳なのだが。
 その兄は新婚間もなく台湾で病死した。二十八歳だった。藤八は境遇には抗い難いものがあると思った。だがそれは身を委ね翻弄されるものではなかった。境遇に抗ったり、翻弄されたりするのは馬鹿だ。抗えないものと切り開くべきものとの境が見えるのか見えないのか…、そこに人間の価値があるのではないか。
 とは言うものの、藤八は境遇に抗う様に働いた。勤倹は百姓の必須条件だが、それだけでは能がない。旧態に捕らわれない発想が境遇を開くのだ。農業雑誌には米作り日本一とか、大規模機械化農業で成功して医者の様な家を建てた例とか、構造改善事業の旗振り記事が載っていた。藤八は丹念に頁をくくった。まさかそこまでの成功を望むのではないが秘訣を知ろうと思った。だが斜面に田畑を刻みつけて細々と生きる農家の成功例などどこにも無かった。
 藤八が目を付けたのは養豚だった。部落には前から豚を飼う農家は何軒かあったので、発想と呼べるものではなかったが、藤八は養豚を主とし、野菜作りを副とした経営を考えた。米作りは別格だ。米は最も確実な収入をもたらしたし、何よりも米を作ることこそが百姓の証であり最高の倫理だと藤八は思っていた。問題は資金だった。
共同経営──旧態たる構造を改善するにふさわしい経営形態ではないか。藤八は五軒の
士を募って自家で寄り合いを開き酒を飲んだ。ハルはただ男達だけが新しい夢を語る旧態たる宴席にせっせと酒を運んだ。藤八は肉食の普及に伴う豚肉の需要の増大を農業雑誌の受け売りという論拠を基に力説した。話の節々に「損はせんよ」とか「五年、いや三年で元は取れるって」と明るい展望をはさんだ。その明るすぎる展望のおかげで三軒が「いろいろ考えたばってん…」と言って共同経営から降りていった。
「よかよか、やる気のある者でやろ」
 資金の分担は重くなったが、かえって覚悟の程を強くさせた。豚舎の敷地には藤八の竹藪を当てた。
 秋の穫り入れが終わると二軒の家は総出で豚舎作りに勢を出した。竹の根を切り、切り株を起こし石を起こし、土を削り、合間にはいくらも出てきた山芋を掘り…。
 とにかく、これは野菜屑や残飯を喰わせて、うまくいけば適当な値で売ろうという様な安直な豚飼いとは違うのだ。材木こそ古材だが床は栗石を敷いたコンクリート、壁はコンクリートブロック、子供達は「家よりか綺麗かね」と歓声をあげた。
───あの頃が一番、充実していた。他人から見ればたいした事じゃなかったかも知れ
ないが、俺にとっては新しい事業だった。
 二十五年前、二軒で始めた養豚業は二年後、もう一棟豚舎を建てて分離した。
 藤八の予想は当たって豚肉の値は高く、殆どの家が豚を飼いだした。しかし高値の次に安値が来るのは道理で、そうするとやめる家が出てくる。中途半端な規模では駄目なのは最初から判ってはいたが、なにしろ金がない。五十に手が届く歳だ。あとはない。藤八は歯を食い縛って安値の時期を凌いだ。
 藤八は豚の安値に耐えた。持病の胃痛に耐えた。医者は入院加療を言った。酒と煙草を断ち、その誘惑に耐えた。粥と牛乳を啜る日々に耐えた。その耐える藤八の耐えられぬ憤懣は主にハルに向けられた。

焦燥──。眩暈がする様な強い日差しを突然思った。ハルが何やら罵倒している。藤八
はハルの頬を張った。ハルはあの時、何と言ったのだろう。強すぎる日差し故、暗すぎる家の中からハルの声が飛んだ。自分ばっかりがきつかって思わんでよ!
 深夜、ハルと母のセイが諍いをしている。何が原因かは知らない。何年も前の出来事が二人の女の中で蒸し返され、やるかたない怒りに火を点けている。藤八は胃の痛みとささくれ立った家庭に懊悩した。だがそれは何度も言うが、明日の見えぬものではなかった。この坂はもう一息だ。平坦な道がそこに見えているではないか。豚の値も幾らか持ち直してきている。借金も残り少なくなった。もう少しだ。親類への返済が終わったら農協から資金を借りるのだ。そして豚舎を増やす。品評会では県知事賞も取り県北では少しは知られる豚飼いに成ったではないか。
 藤八は耳の奥に自分自身を鼓舞した呟きと妻と母の諍う声を聞いた。又ペンを取る。腕の萎えは文字の震えとなる。死を前にしての事かも知れぬが、最も親しかった二人の女の日常の抗いの声に、今はその元に行くのだと言う悲しい弱い心の安堵が、むしろペンの震えとなったのやも知れぬ。

 藤八は胃病を克服した。養豚業は概ね順調にいった。竹藪続きの砂山を削って豚舎を増築した。
 この頃二年程の間に二人の弟が死んだ。次弟は米兵にはね殺され、三弟は肝臓の病で死んだ。二人共四十台の働き盛りだった。六人いた兄妹は藤八と末の妹の二人になった。母のセイの落胆と憔悴は大きかった。
 幾つかの波があり、やがて、長女に子が生まれ、次女も嫁ぎ、跡取りの長男にも嫁が来た。次男は名古屋で独立した。三男は東京に出た。末の娘も高校に通う歳になった。
 やっと一息つける。藤八はいっそう養豚の仕事に打ち込んだ。純良種を求めて九州中をまわった。母豚を増やし、常時二百頭を超える子豚をかかえ、月に五十頭の肉豚の生産を目指した。もはや自家の野菜や残飯だけで餌を賄う事はできない。農協の配合飼料が軒下にうず高く積まれた。月によっては飼料代が嵩む時もあったが、暮らしの成り立ちには概ね目処がついた。
 そんな時に母のセイが倒れた。八十を過ぎても草取り仕事に出ていたセイの病は肺結核だった。ハルや藤八の妹、秋子が交代で付き添い看護に当たった。セイは病室のベッドの上で小さく痩せた。孫達が見舞うとセイは皺の中の小さな瞳に涙をいっぱい盛り上がらせた。
 セイが入院して二夏目。
──おはばもこの夏が峠やろ
 そう話していたハルが倒れた。春先に一度軽い発作で倒れ、それ以来ハルは殆ど野良には出ず孫の子守に明け暮れていた。
 十二年前の丁度今頃、七月の半端過ぎ、宿痾の高血圧に倒れたハルは一週間の昏睡の後に死んだ。五十六歳だった。
 同年の九月、セイが死んだ。八十四歳だった。ハルの突然の死はセイには知らせなかったが、姿を見せなくなったハルを訝しく思ったセイは、看護婦のなにげない会話の中からハルの死を察知した。付き添いに来ていた秋子にセイは「かあちゃんは死なしたってや」と言った。暁け方、セイは血を吐いて死んだ。誰にも見取られなかった。

 藤八はいよいよ豚飼いに没頭した。真宗の教えにも帰依した。死んだ母のセイもお寺参りをよくした。もともとこの辺りは真宗の盛んな所で、藤八はこの辺りの檀家の総代を勤めた。前から藤八は農協や養豚組合などの世話役を引き受けていた。死んだハルは「とうちゃんは一銭にもならん役ばかり引き受けて…」と愚痴ったが、確かに持ち出しの多いそういう役目が藤八の虚栄の部分をくすぐるのだ。
 子供達は六人すべて親になっていた。
 藤八は老境を思った。年相応に敬老会に入り、慰労会では下手糞なカラオケにも興じたりもした。だが、藤八はその老境に安堵したくはなかった。豚はかつてない高値をよんでいた。豚は夜出産する。藤八は独りで子豚を取り上げる。とても老いに身を任せてはいられない。
 順風満帆。
 農作業に追われ、かつかつの生活に追われていた頃、精米所の帰りや肥え汲みの帰りに酒屋で焼酎の立ち飲みをする事はあっても、街場の飲み屋になど入った事もなかった。それが時代の流れなのだろう、この頃では何かの行事の打ち上げで街まで繰り出す事も珍しくない。藤八は養豚組合の会合の流れでその女を知った。
 ナミ江というその女は、四十は超えた小太りの女だったが、そこに行くと藤八は、子や孫の前での謹厳な顔を捨てて奔放に振る舞う事ができた。
 その前年、藤八は庭先に石碑を建てた。忠豚の碑と銘打った石碑にはこんな文句が刻まれていた。
「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏 豚よお前達が人間の食物として生まれて来たとは、お互い崇高な生命があると言うのにこれは人間が勝手に決めたことである。
 私は生産を業としているが為に止むを得ず幾多の尊い生命を奪う所業故、仏心鬼手と言えども誠に憐愍の情を感ずるところである。豚の人間に対する献身に感涙して止まず、豚の霊を慰めんと此地に慰霊の碑を建立するものなり。
 南無阿弥陀仏」
 他人は「ふうけもんが」と笑うかもしれんが…。
 藤八は、しかし、これで積年の蟠りを解消したと思った。売られていく豚達の悲痛な叫び、屠殺場で電気で殺されていく豚の姿。
 石碑を建立し、供養を済ませた藤八は老いの寂寥を払った。なんの人生はこれからだ。俺は現役だ。
 藤八はたががはずれた。豚の品評会にも村の祭りにもナミ江を伴った藤八がいた。ナミ江は藤八を社長と呼んだ。目一杯めかしこんだ若い(といってもとっくに四十を超えているのだが)女を連れて人前に出る時、藤八は功成り名を遂げた者の様な錯覚を覚えた。もちろん人々の噂となったが、やっかみとしか聞こえなかった。
 子供達は当然意見をした。一番上の孫はもう高校受験を控えていた。世間の体裁、子供達への影響…。しかし、藤八は、俺は親としての責任は果たした。あとは俺自身の人生を愉しむといった意味の事を言って取りあわなかった。
 だがナミ江との破局はすぐに来た。原因は藤八の吝嗇振りにあった。きょうび一回の手当を三千円ぐらいで済ますのはもってのほかと言うのが彼女の主張だった。藤八は店を持たす様な事をほのめかし、そのかわり手当の増額は受け付けなかった。そして、その店を持たせるという口約束も反故にした。熱が冷めたとも言えるが、金が惜しいというのが、正直なところかかもしれぬ。
 ナミ江は家にまで怒鳴り込んできた。
「一生、あんたなんか人前に出られん様にしてやる!」

 そうして藤八のもくろみは大きく狂いだした。
 豚の値がきしみだした。それは暴落の前ぶれだったが、藤八は有り金をはたいて豚舎の増築をおこなった。豚肉は下がり飼料は上がった。もう家で喰う程の野菜しか作らなくなっていたので餌は家と近くの病院からのわずかな残飯の他は、殆ど全面的に配合飼料に頼っていた。畑作、水田耕作の縮小は豚が排泄する肥料の使い道がなくなる事を意味した。糞尿は堆積され強烈な異臭を放つ。直接言われる事はないが近隣の苦情は知っていた。藤八は苦境に立たされた。絶頂の時は一変した。眠れぬ夜がつづいた。食事が通らなくなった。足と腰がひどく痛んだ。歩くこともままならぬ程であった。豚の餌やりにも難儀をするようになった。医者は多分に気持ちから来ているといったがその気持ちがどうしてもふるい立たないのだ。
 奢りたかぶった昨日の自分の諸行を思い藤八は消え入りそうになる。増築した豚舎には結局一頭の豚も入らなかった。 借金を残さなかったぶんましだった。予期せぬ事はまだあった。どんな日照りのときにも枯れたことのない泉が突然枯れたのだ。水道をひくほんの数年まえまでは、そこは貴重な飲料水源であった。原因はわからない。或いはこのあたりの地下を縦横に走っているかつての杭道が崩れ水脈が断たれのかもしれない。しかし、藤八にはそれは不吉な前兆と映った。
 藤八は愕然とした。何か抗いたいものが自分を責め苛んでいると感じた。そして末期の狂い咲きの様な日々に激しい自己嫌悪を覚えた。母も妻も父も、兄も安穏の日を知らずに死んでいった。弟達にも突然の死が襲った。残った俺は飯を喰うにもポロポロと米粒をこぼす始末だ。もはや養豚を続けていく気力も体力もない。第一、ああ安くては成り立っていかない。息子夫婦に成り立たない商売をゆずる訳にはいかない。
 四月のある日、藤八は腰痛で通っていた病院にすすんで入院した。入院をきめた日、豚の売りさばき先をきめてきた。
 嫁は働き者で、気立もいい。孫も「じいちゃん」と慕ってくる。だが、独りで飯を喰う事さえおぼつかなくなり、下の世話までかける様になったら…。
 老残をさらして床に伏す自分自身をおもうのはいたたまれなかった。
──死んだ方がましだ。
 その想像はある夜、ポッと心にきざした。自ら命を断った人を何人かは知っている。どんな原因があったにせよ自殺は藤八の認めるところではなかったのに、しかし、この先見えるのは、ただ無残に老いて自身の仕末さえおぼつかない己の姿ばかりと感じていた時、死への誘惑は夜毎に強くなってきた。
 明後日は亡き妻の十三回忌という七月払暁。その法要のため一時帰宅していた藤八は、この日、六十九歳の生涯に終止符を打つと決めた。底深い虚無の中から無念の気持ちがせきあぐってくる。いたわりのなさが妻の死を早めたのではとの悔恨、生き抜く為にやりおおせた事への自負と、それ故の懺愧。
 死を目前にして、回想の感傷の深さに驚きながら藤八は短い遺書を終えた。 梅雨明前の七月の朝は湿気をいっぱいに含んで、病む足をそろそろと引きずって外に出た藤八の目に、最後の白い静謐な景色を見せていた。


 父が縊死して一年が過ぎた。明日は東京に帰るという日の夕刻。私は生まれた部落から隣の部落へかけて歩いてみた。夕刻といっても夏の陽は高い。七月も末というのに梅雨は明けきらず、陽は、厚い雲の間から黄金の光りの束を投げつけている。
 生まれた村の棚田のあちこちが休耕田となって、すでに耕作を放棄された田は竹藪になっていた。道筋にはわらびが何本も春の姿のまま顔を出している。
 隣部落へ行く途中の小さな溜池をのぞいてみた。水が枯れて水中ポンプがヘドロに半分埋まっている。黄色いホ−スがペシャンコのままヘドロの中から土堤へかけてのた打っている。この池が水を供給する水田はすべて休耕田になっていた。水は枯れたのではない。水中ポンプで抜かれたのだ。
 農民はいつの時代も虐げられてきたが、農業そのものが切り捨てられるという、馬鹿な時代がかつてあっただろうか。
 道ばたの夏草の繁りと休耕田の藪の繁り、水を抜かれ水中ポンプとともにうち捨てられた溜池。石を積み斜面を刻み、掌の様な土地でさえも汗しみこませて耕して食べ物を作ってきた人達が受ける、この仕打ち。
 十数年ぶりの懐かしい道を暗澹として歩いた。農業破壊と父の死を短絡的に結び付けようとは思わないが、父という個性の中の相剋のみが死を選ばせたとも思えない。
 隣の部落の入口にくると眺望がいっぺんに開けた。棚田は水をいっぱいに張られて下の平野まで続いている。早苗は青くすっきりと伸びて、田面は雲の切れ間からの夕暮れの陽を鏡の様に撥ねている。
 道を下る。曲がり角で小さい犬が吠えている。尾を後肢の間にはさみこんで後じさりしがら、それでも吠えている。そして草苅機のエンジン音が聞こえてくる。
「マイケル、やめなさい、こら」
 路傍の草を鎌で刈っていた少女が叫んだ。マイケルとは随分ハイカラな名の子犬だ。少女は中学生くらいで、赤いジャージーと白いTシャツを着ていた。
 少女は見知らぬ私に「こんにちわ」と挨拶をした。すぐ下の田の畦で草刈機を操っているのは彼女の姉だろうか。同じような装りの後姿、髪を赤い布でひとつに束ねている。その少女は肩に草苅機を支えるベルトをかけ、両手を左右に振って草を刈っている。緑いっぱいの景色のなかで娘二人のまろやかな動きが、私に新鮮なしみいる様な感動を与えてくれた。
 道はさらに下ってやがてふたつに分かれる。右に曲がれば道は杉林に入る。しばらく木立のなかを行く。木立を墾いて作られた一枚の畑は十数年前と同じ様に健在だった。生姜が植えられていた。
 根本には稲藁がびっしりと敷き詰められている。丹精を受けて生姜の深緑の葉は杉木立のしじまをすっくと刺していた。


TOP
BACK